はじめに
「タヒボNFD」を日本で初めて皆様にお届けしようと考え商品化したのが、タヒボジャパン株式会社 創設者の畠中平八(故)社長です。
タヒボジャパン株式会社は、現在日本で唯一「タヒボNFD」を輸入製造している会社です。
その商品を皆様にご紹介し、ご相談・ご説明のもと販売しているのが発売元 タヒボe株式会社です。
弊社はタヒボジャパン株式会社創設時より、共に歩んで参りました。
畠中平八初代社長と弊社代表の岩﨑との出会いをお話しさせていただきます。
【 タヒボとの出会い 】
「面白い健康食品があるから一度大阪に出て来ないか?」が最初でした。
その頃の私は、仕事を探している時だったので、十分に時間がありましたが、健康食品は眉唾物が多くどんなに困っていても仕事にしようとは思っていませんでした。
しかし、何度もしつこいくらい誘われ、航空券まで送って来たのでシブシブ行く事にしました。
運命の出会いでした。
昭和62年2月12日、大阪の中央区にあったタヒボジャパン株式会社の創業者である畠中平八社長を紹介されたのです。
「よう来はりましたな!」と笑顔で握手した瞬間の掌は、柔らかで温かく心まで包み込まれるかのような不思議な感覚があった事を今でも鮮明に覚えています。
畠中平八社長は相場の神様、北浜の平ちゃんとして知らない人はいないというほど有名な方だったのです。
企業小説で有名な清水一行さんが出版された最初の企業小説「相場師」の主人公として描かれていますが、その頃の私は、小説も、相場というものも全くの素人でしたので、そんな著名な方が何故健康食品などを販売されるのか不思議でした。
当時、健康食品は、ネットワークビジネスで「人を騙す道具」として使われていることが多く「効いても効かなくても健康食品」との印象が強かったのでなおさらでした。
「タヒボ」に関する資料もA4用紙1ページに多くの病名が書かれており、タヒボ茶を飲んで治ったということが書かれていただけで、他には何の資料もありませんでした。
「それはあなたにしかできない仕事です!」
畠中平八社長は、ある日、高野山から高名な阿闍梨さんが訪ねて来られ、
「今後東から人の口に入るものが来ます。それはあなたにしかできない仕事です!」と謎かけのような言葉を告げられたと。
それから2~3ケ月後、雨が降りしきる日に、知り合いの方がブラジル人を伴って訪ねてこられ、彼が「タヒボ」という商品を日本のいろんな会社に売り込みに行ったが誰も相手にしてくれなかった、これを売らないと彼はブラジルに帰ることができないので是非、買っていただきたいと懇願されたそうです。
咄嗟に浮かんだのは高野山の阿闍梨さんの言葉だったそうです。
何と驚く事に・・・3億円で「タヒボ」を引き取ったと聞きました。
【 「タヒボNFD」の誕生 】
さて、どうしたものかと思案した結果、現在の健康食品の「タヒボNFD」となる礎ができたのです。
健康食品として販売することを考えた畠中平八社長は、先ずは、人様の口に入るのだから安全性を調べるため、神戸大学の坪井教授に依頼をして、安全性を確認していただきました。
(坪井教授は、畠中社長が太平洋戦争の激戦地フィリピンで戦った部隊の中でただ一人生き残り、30数年後戦友が眠る地に小学校を寄贈された時に同行された先生です。)
また畠中平八社長自身がクローン病、S状結腸がんの手術をされ副作用に悩まされていた時でしたので、早速飲んでみたところ、これまで飲んでいた丸山ワクチンでは効果のなかった副作用が短期間で解消された経験を持っていたので、「これで多くの方のお役に立てるのではないかと」感じ商品化されました。
また、こんな経験も・・・
沸かしていた熱湯を誤って腕にかけてしまった時は、患部のシャツを切り取り「タヒボの粉末」を何度も塗り付けた結果、火ぶくれにもならず痛みもすぐに解消し痕も残らなかったのです。
「タヒボNFD」の一番最初の商品は、原材料の樹木の内部樹皮を粉末した物で、煎じて飲むタイプの1種類でした。
最後に
畠中平八社長との出会いから、私は、会社を立上げタヒボジャパン株式会社と共に歩み37年間「タヒボNFD」を多くの方々にお役に立てていただけるよう今後も継続してまいります。
ちなみに弊社の神棚には、清水一行の小説「相場師」に畠中平八社長から最初で最後のサインを頂いた単行本が飾ってあります。
畠中平八社長とタヒボに出会ったときを思い出しながら書いてみました。
左:タヒボe株式会社代表 岩崎正昭 右:タヒボジャパン株式会社前会長 畠中平八
タヒボe株式会社
代表取締役 岩﨑 正昭